なんでやねん日記

なんでやねんです

半年

もうすぐ半年になる。

この半年私はずっと「私ってこんなに鞘師のことか好きだったんだな」と思い続けている。

私の中で鞘師は、好きな女の子を見ているはずがふと目を奪われる存在で、ああエースってこういう子のことを言うんだな、というのを否が応でも感じさせてくれる子だった。指の先まで神経が通った強いけどしなやかなダンスで、泣き出すんじゃないかというくらい一生懸命絞り出す歌声で、愛くるしい笑顔と鋭い視線で、いくらでもいくらでも、新しい魅力を見せてくれる子。私の中では一番ではないけれど、間違いなくいろんなことの一番な子で、それが故になぜかもっとずっと私たちにいろんなものを見せ続けてくれるんだと勘違いしていた。

鞘師が卒業を発表してから、できる限りの「会える場所」に足を運んだ。ひとつイベントが終わるたび、鞘師が卒業する実感は薄れていった。「鞘師が立つステージをもっと見続けたい」という気持ちだけが大きくなっていった。

5月末に、幸せな卒業コンサートを立て続けにふたつ見た。どちらも、それはそれは、素晴らしいコンサートだった。

私たちはお金や時間などの対価をはらって、彼女たちの貴重な一瞬一瞬を見させてもらっている。彼女たちにもそれぞれ人生があることは、もちろん、十分、知っている。だから卒業は寂しいけれど、同時に晴れやかな気持ちで見送っている。最後にステージに立つ彼女たちはとても愛らしくて、かっこよくて、誇らしげで「幸せです」と言いながら満面の笑みでステージを去る。私たちもその日を境に、気持ちの一区切りをつける。

でも今回、幸せなステージを目の当たりにして、素晴らしかったなという気持ちとともに浮かんできたのは「鞘師でも、このステージを見たかった」だった。卒業したふたりには最大の敬意を払っているし、鞘師もセレモニーがなかったわけではない。だけど立て続けにみた卒業コンサートのどちらもが、鞘師の最後のステージとはまったく異なるもので、言い換えれば今までも見てきた卒業コンサートのそれだった。

こんなことを言っても仕方ない。今まで卒業していった女の子たちと同様に、鞘師も新しい道を歩んでいる。こんないい年した女が、ひとりの十代の女の子がステージから降りたことを嘆き続けるなんて、心底見っともない。

そう分かってはいながら、私は繰り返し、鞘師の映像や歌声を見たり聞いたりしながら「私ってこんなに鞘師のことが好きだったんだな」と思い知る。鞘師の話題がテレビや動画やブログに登場するたび思い知る。

私が好きな女の子たちはいずれ、今までのように歌ったり踊ったりしなくなる。そんな当たり前のことを、改めて理解した半年だった。私たちにできることは、ステージで輝く姿を1分でも1秒でも長く目に焼き付けること。それしかないのだ。