なんでやねん日記

なんでやねんです

歯が痛い(気がする)

右上奥歯のちょい手前、左上奥歯のちょい手前、なんだかズキズキ違和感がある(気がする)。

(気がする)というのも、以前も同じ場所に同じように痛みを感じて歯医者に行き、レントゲンまで撮ったのに何の異常もなかったのだ。歯医者は嫌いではないけれど、そもそも病院に行くのなんて大概が面倒なことなのによっこらせと重い腰を上げて動いてみたら、「虫歯じゃないですよ」と言われた時の虚しさ。いや健康的にもお財布的にも何もないほうがいいに決まっている。決まっているけれど、あの診察台に座るまでの決意と行動に見合うだけの結果が欲しいと思ったのも事実なのだ。

そういう風に、思い過ごしたり勘違いをした結果、肩透かしをくらうことがままある。

もっと気楽に、気軽に、物事を捉えたい。「虫歯じゃないですよ」と言われて何だかがっかりするのではなく「よかった、虫歯じゃないんですね」と言えるようになりたい。虫歯じゃない、いいことじゃないか。いいことしかないじゃないか。何も不安になったり疑ったりする必要は、ないのだ。

この街に来て、まだ歯医者には一度も行っていない。もともと虫歯ができやすい体質ではあるので、定期検診を兼ねてそろそろ行ったほうがいいとは思っている。そうやってひとつずつ少しずつ、私はこの街に根をはっていく。

また、春がやってくる。また、ひとつ歳をとるのだ。

おやすみなさい

夜、一緒に過ごした人たちと別れるとき、電話を切るとき、「おやすみなさい」と一言伝えるのが好きだ。

「ばいばい」「またね」最後に「おやすみなさい」。

だいたい21時を過ぎたころになると「おやすみなさい」と言っても違和感がなくなる。実家から掛かってきた電話を切る場合は、20時でも「おやすみなさい」と言うことがある(その時間、街灯がほぼない実家の周囲はすでに真っ暗)

おそらく、うちの母が誰かと別れるたび、電話を切るたび「おやすみなさい」と言っているのを傍で聞いていたからだと思う。「おやすみなさい」と声を掛けられる人は、親しい人に限られる。仕事の人には言わないし、付き合いが浅い人にもあまり言わない。寝る前のあいさつだから、その人の暮らしの一部になっている気がする。

今日、たくさんの人で賑わう駅で、友達と別れる女性が告げた「おやすみなさい」のひとことがすっと耳に入ってきて、なんだか嬉しくなった。ばいばい。またね。おやすみなさい。おやすみなさい。

あいまいであまい

帰省の電車の中で、今年一年のことを少しずつ振り返っている。出来事というよりは、自分の感情たちと向き合っている。

 
たくさんの感情が死んだり生まれたりを繰り返した一年だった。それは自我が生まれてからずっと繰り返していることなのだろうけれども、分かっているけれども、そう思わずにはいられない一年だった。
 
たくさんの人に支えられた。こんなこと思う殊勝な性格じゃないはずなのに、何だか本当に、いま、感謝の気持ちでいっぱいだ。笑える、気持ち悪い、それも知ってる分かってるからわざわざ言わないで。いいことばかりじゃない、嫌なことも苦しいことも自分に呆れることも、いつも以上にあった。これから前途洋々、なんて絶対思えない。きっとまたたくさん辛いことがある。それでも大丈夫だと思える。今日は、今朝は、そう思える。昨夜は、そう思えた夜だった。
 
人の幸せを願うほど無責任じゃない。人の幸せを願いたいなら背負うべきだ。だから何も言えない。でもきっと、ああ駄目だ感情がいっぱいで何を掴んで何を放つべきかちょっとまだ分からない。謝罪も感謝も、きっとこの場所には当てはまらない。
 
この文章はとてもあいまい。久しぶりに自分の好みのことじゃなくて、あいまいな言葉を書きたくなった。まだ酔っ払っているのかもしれない。アメを舐めているから口の中がとてもあまい。当たり前か。当たり前だ。